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島津「丸に十字」
家紋 島津丸に十字

島津家の家紋「丸に十字」(十字紋)。

島津家初代当主忠久公の甲冑にも残っているこの紋は、900年近い歴史を持つ由緒ある家紋です。ですがこの家紋の由来は諸説あって「これだ」という確信的なものがなく、調べると想像が膨らんでくる興味深い家紋の1つです。

■十字は龍であるという説■
縦の一は登り龍、横の一は下り龍。源頼朝から賜った二引き竜紋(二引き両紋)を縦横に変形させ、家紋にしたという説がありますが、頼朝自体は家紋を持ってはいないのでこれは違うのではないかとオイラは思います。

■十字架紋説■
パッと見ると一番最初に頭に浮かぶのはこれでしょう。
フランシスコ・ザビエルが初めて日本に上陸したのは薩摩なので、この説が出たことも分かるのですが、初代当主の忠久が使用していたのは鎌倉時代です。キリスト教が伝来する以前のことなので、残念ながら違うのではないでしょうか。

■轡(くつわ)紋説■

轡(くつわ)とは馬の口に含ませる口輪のことです。確かに似ていますので、これがしっくりするようではありますが、島津氏の十字紋は江戸以前は丸がない十字だけ紋でした。丸十字の金具をイメージした轡(くつわ)紋説も関係がないものでしょう。

■呪符説■
「日本紋章学」の著者の説で、中国の書物に「むし餅の上に十字をつけなければ食べない」とあり、十字の符が使われるようになったそうです。それが鎌倉時代の日本に伝わり、一般的に使用されるようになりました。「十字」は何もキリスト教だけのものではないのです。まじないや民間伝承の中で「十字」は天地、完全、円満無尽を現すものである神聖な形として捉えられていたらしく、鎌倉時代ではまじないとしては随分流行ったそうです。説としてはこれが一番近いのではないかなぁとは思います。

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森「鶴の丸」
家紋 鶴の丸

森家の定紋「鶴の丸」(舞い鶴)。

鶴はその縁起のよさと「神に仕える鳥」である優雅な姿から「紋様」として平安時代の貴族たちに好まれて使用されてきました。鶴をモチーフにする紋はいずれも翼を広げた美しい図柄をしています。

元を辿ると、鎌倉の鶴岡八幡宮にぶち当たります。行かれた方は分かると思いますが、鶴岡八幡宮内のいたる所に「鶴の丸」が使用されているのです。これは源氏の氏神が八幡大神であったことから本拠地でだった鎌倉に八幡宮(戦の神様を祀っています)を祀りました。

源頼朝が鎌倉幕府を樹立した折り、金の短冊を足につけた千羽の鶴を放ったことと、かねてより使用していた「鶴の丸」の紋様が、八幡宮の神紋「鶴の丸」へと変化しました。「鶴の丸」は奉納される刀には必ず入れられていたといいます。森家は清和源氏の流れを組む由緒正しい一族ですので、家紋に「鶴の丸」を使用していたと考えられます。


森家といえば信長の小性として弟2人とつとめた蘭丸ですが、小性というと主君の日常生活の雑用をこなしたり、戦の際には側にいて護衛役をしたりと秘書と兵隊の役割を兼ねていました。少年が多かったことから、同性愛の対象になる場合もあったのですが、万が一寝屋で襲われた場合でも瞬時に防衛体制を作れるよう訓練されていましたので、万能な存在といえます。

蘭丸は幼い頃より信長から寵愛を受けていた小性です。美しい少年だったという逸話も残されていますが、信長に対しての忠義はもちろんのこと、とても優秀な小性でした。信長は側近や諸大名たちに自分には自慢できるものが3つあると言っていました。

「1つ目は奥州より献上された白斑の鷹、2つ目は青の鳥、3つ目は蘭丸」

どれだけの信頼を得ていたのかが伺えますね。
18年という太く短い生涯を本能寺の変で終えることになるのですが、蘭丸は最後まで主君信長に殉じて壮烈な死を遂げたといいます。

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竹中「九枚笹」
家紋 九枚笹

竹中半兵衛が使用した「九枚笹」(くまいざさ)。

「九枚笹」(くまいざさ)の語源は、一振りの枝に葉を9枚前後つける熊笹の1種であるクマイザサからきています。

過去記事、伊達家の「竹に雀(仙台笹)」紋でも少し書いていますが、「竹」「笹」は共通して高く成長し、根強い繁殖力や節操のあることを表しています。竹中氏は斉藤道三が滅ぼした、美濃の土岐氏(清和源氏の支流)の流れを組む一族(岩手氏)で、美濃・岐阜では「笹」の家紋が多くみられます。鎌倉初期より紋様から家紋へと変化を遂げました。

源氏というと「桔梗」紋や「竜胆」を思い浮かべますが、「笹」も源氏が使用していたという風説が流れ、江戸時代はこぞって武家が使用したそうです。


「九枚笹」紋の由来があまり定かではないので、せっかくですので竹中半兵衛について書いておきましょう。半兵衛はかなりの軍事オタクでした。初陣(13歳)に出る頃には、大人顔負けの博識ぶりだったといいます。あまりののめり込みっぷりに、一般常識を欠いていたという話もあります。特に軍略に関しては、半兵衛21歳の時に起こしたクーデター(稲葉山城乗っ取り占拠事件)が、彼を歴史の表舞台に立たせた事件として名高いのではないでしょうか。

よく「秀吉の軍師」という言われ方をしていますが、半兵衛の主君はあくまでも信長で、秀吉とは主従の関係ではなく、同じ部署に属する上司と部下という関係(※寄騎)でした。主君ではないので、時に秀吉の命令に従わないことも許され、または秀吉の臣下に意見することもできる立場だったので「秀吉の軍師」という印象がついてしまったのかもしれません。言い換えれば、何でも言い合える、よい上司と部下だったのでしょう。
※よりき……有力武将に付き従う土豪の武士のこと


生涯軍略に身を捧げた半兵衛ですが、肺に持病を抱えていました。播磨の三木城攻略の際、一時は療養するものの命の刻限を悟ったのか、攻撃陣囲に戻って陣中にて亡くなりました。36歳、あまりにも生き急いだ短い生涯。しかし稲葉山城のクーデターから15年という短い年月で、軍略の才を後世で謳われるようになったのは見事としか言いようがありません。

半兵衛の死を摂津攻略中の秀吉が聞き、播磨に駆けつけました。秀吉は泣いてその別れを惜しんだそうです。上下の関係であったとはいえ、それは友とも呼べる存在だったのかもしれませんね。

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豊臣「五七桐」
豊臣家紋 五七桐

豊臣家の家紋「五七桐」。

「太閤桐紋」とも称されるこの桐紋は、織田家の「木瓜」紋で少し触れた通り「五大紋」の1つです。桐紋といっても形状は様々ですが、オーソドックスな形状になればなるほど、古い歴史を持っていると言われています。

豊臣家では「五七桐」(中央に7つの花、左右それぞれに5つの花)を使用していますが、もともと「桐」紋は中国で「鳳凰が止まり木にしてさえずる格調高い木」という思想が日本にも伝わり、皇室にて使用されるようになりました。天皇が使用しているのは「五三桐」(中央に5つの花、左右それぞれに3つの花)です。

足利家と豊臣家は、天皇より「桐」紋を下賜されました。
天皇が臣下に、下賜された武将が更にその臣下へ与えと、「桐」紋がここまで増えた流れにはそれなりの理由があります。「菊」「桐」紋は共に高貴で名誉というネームバリューが当時からありました。天下御免の「御印」ですから、武家ではこぞって使いたがったわけです。

気がつきにくいかもしれませんが、信長を頭の中で思い浮かべると、教科書等に載っている肖像画を思い出されるでしょう。あの肖像画の「肩衣(かたぎぬ)」には「桐」紋がついています。伊達家でも、政宗の代に豊臣家から賜っています。

成り上がりの秀吉にとって、「桐」紋はさぞや誇らしげであったと思います。現在も「菊」紋同様、国章と同等の扱いをされておりますので、公の文書等にも見られることが多々あります。

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明智「桔梗」
家紋 桔梗

明智の家紋「桔梗」。

もともと美濃の斉藤道山に滅ぼされた、土岐氏の代表紋で清和源氏の流れを組む紋でした。土岐氏の流れを受ける家は「桔梗」をモチーフにした家紋を使っており、そのお膝元である美濃は特に「桔梗」紋が多い地域です。加藤清正や柴田勝家などもこの紋を使用していました。

本能寺の変で、森蘭丸と織田信長の掛け合いにこうあります。

「恐れながら旗印は水色桔梗、明智日向守光秀殿にござりまする!」
「おのれ光秀、是非もなし(仕方がない)※!」
※ この場合捉え方として「しょうもないヤツめ」が相応しい。

そう、光秀に限っては通称「水色桔梗」紋と呼ばれる、鮮やかな水色に染め抜かれた「桔梗」紋を使用していました。当時家紋というと、パンダ色(白黒)が多い中、光秀の「水色桔梗」はかなり異色でした。戦場ではかなり目立ったはずです、インテリ文人だった光秀らしい感じがしますね。ただ、上記の掛け合いは夜の出来事、暗闇の中「水色桔梗」が見えたかどうかは疑問ですが・・。

「裏切り者」というレッテルを貼られがちな光秀ですが、当時はそんなものはざらざらでした。「三日天下」の故事を残すまでとなってしまいましたが、織豊時代(信長と秀吉、戦国花形期です)にぶち当たってしまったのは、光秀の運の悪さとしか言い様がありません。

小振りで愛くるしいその形状から、江戸から現在に至るまで「桔梗」は女性に人気が高い紋だそうです。

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織田「揚羽蝶」
家紋 揚羽蝶

織田家の使用した家紋の1つ「揚羽蝶」。

蝶の舞い遊ぶ美しさから女性にも好まれた文様で、調度品や兜や直垂(ひたたれ)等に使われた、平氏一門に愛用された紋で、後世に平氏の代表紋と言われるようになりました。そして時代の流れとともに「家紋」へと転化したのです。

信長は自らを平氏の子孫(平重盛の子、資盛の子孫)と称し「揚羽蝶」を使いました。実際、信長は無理矢理すぎるくらいのこじつけで平氏との繋がりをアピールしたのには、ある理由があります。

当時も現在と同様ジンクスというものが存在し、政治の風潮として「源平交代説」があったようです。つまり、政(まつりごと)の頂点に立つ者の先祖が「源氏」「平氏」「源氏」「平氏」・・・と交互に成り代わっていたため、信長が天下統一目前という頃は「次は何が何でも『平氏』でなければならない!!」という思いが絡んでいたのです。

木瓜」の家紋が有名なため、「揚羽蝶」を用いていたことを知らない人も多いようですが、今でも信長が着ていた「揚羽蝶」の紋が背中に入った陣羽織が残されています。

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織田「永楽銭」
永楽銭

織田家の軍旗等に用いられた「永楽銭」です。

「永楽銭(永楽通宝)」というと、それをモチーフにした真田家の「六文銭」が思い浮かぶと思いますが、戦国時代の貨幣は、中国(宋・明)等から輸入した渡来銭が使われており、いろいろなものが混ぜこぜでした。「永楽銭」は、当時全国的に最も流通していた貨幣だったのですが、金や銀のような価値はありませんでした。

では何故信長は何の変哲もない銅銭「永楽銭」を軍旗に用いたのでしょうか?
変化に敏感で先見の目を持つ信長が、御旗(本陣に立てる巨大な軍旗のこと)にまで用いたのにはそれなりのわけがあるのだと思います。

幕府も「永楽銭」の流通の保証はしていなかったのですが、「永楽銭」の交換価値は全国でも認められていました。金や銀のように扱いに苦労することはなく、誰もが手軽に持ち運べる便利な貨幣だったのが「永楽銭」です。

信長は「楽市楽座」という経済政策を行い、関所を撤廃しています。兵士と農民とを完全に分離させることで商業を発展させ、物流を促し、領地を裕福にしました。そして、商業のもたらす富で軍を強化させるという流れをいち早く作った先駆者なのです。

実際に日本が本格的な「貨幣経済」に入ったのは、安土桃山時代以降で、それがやってくるということを、信長は既に見通していたのでしょう。

「貨幣経済」を支えるのは、一にも二にもまずお金です。
全国的に流通していた「永楽銭」はなくてはならないもの。そしてそれは変わることがない普遍的なもの。軍旗にした「永楽銭」という形を通して、信長自身全国に名を馳せる唯一の者になるのだという思いがあったのだと思います。

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織田「木瓜」
木瓜


織田家に代表される「木瓜(もっこう)」。

数ある家紋の中でも、バリエーションに富んだ紋で「藤、木瓜、片喰、鷹の羽、桐」、この5つをモチーフにした紋は、「五大紋」と称されています。各紋にはそれぞれ用いられた理由があるのですが、いずれも美しく、大変バランスがよいのです。

「木瓜」は「ボケ(木瓜)の花」をモチーフにしたという説、「きゅうり(胡瓜)」を「きうり」と読み、輪切りにした形という説、神社等の御簾の縁の帽額(もこう)にあった文様の名前からだとか、いろいろ謎ではあります。

実際「木瓜」紋は鳥の巣の中の様子を(ヒナやタマゴ)を紋様化したもので、「子孫繁栄」等の意味を持っていることから、神社等にも使用されていたのではないかという説が有力らしいです。


まぁ、ここから先はオイラの仮説として述べます。

織田家の「木瓜」に関しては花弁が5枚(大概4枚)あるのですが、この紋を見る限りでは「ボケ(木瓜)の花」(木瓜の花弁も5枚)をモチーフにしたのではないかと思われます。もともと「ボケ(木瓜)の花」は原産国は中国です。そして日本に持ち込まれた次期は平安時代。中国唐代の官吏の衣服つけられていた模様をマネて、平安時代の公家が使用していたり、「延喜式」という書においては、朝廷に「ボケ(木瓜)」3束を献上したとの記事が残されています。このことから格式の高い花であったことが伺えるのです。

花言葉は「指導者」「先駆者」etc。
それ自体は後世に意味を持たされたものですが、織田家が家紋として用いたのも納得がいくような気がしませんか? ちょっとだけ歴史ロマンの香りがしますネ。


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家紋の始まり
家紋

家紋の始まりは古い。
家紋というより「紋章」として用いられたのは、およそ1000年以上前。平安時代の貴族たちが、牛車や調度品、衣類などに紋様をしるしたのが始まりだと言われています。当時はまだ「家紋」という認識が薄く、好みの柄を用いて単純に他者と自分とを区別するためのものでした。
木瓜

武家が台頭しはじめる鎌倉時代に移ると、戦場において敵と味方を区別するために旗印として用い、個人の武勲の目印に「家紋」として仕様するようになったのです。
銭紋

やがて群雄割拠する戦国時代、公家より武士の数が急増するにつれて、己を誇示するためそれはそれは多くの「家紋」が登場しました。先祖に由来される家紋をはじめ、主より賜ったもの、志を家紋にしたもの、1つの武家にて使用される家紋は1つというわけではなく、多種多様な図柄が乱造されたのもこの時代です。
一筆豆造

江戸時代になると、乱造された紋が徐々に整理されてゆきます。格式高く、美しい形となり、日常生活の中で袴や紋付き小袖に用いられるようになりました。一般庶民たちも紋付きを着ることが流行し、今と同様好きな役者など(現在は武将か・・)の紋をまねて身につけていました。
稲荷玉

そして現在、日本の家紋の種類は苗字の数より多く、一説に20000種類以上あると言われています。一つの苗字でも、本家・分家を区別するために一部を変えたり付け加えたり、そのバリエーションの多さは世界的に見ても日本だけてす。しかも西洋と違い、庶民の家で個々に家紋を有しているのも日本独特のものです。

その形と種類が動植物、用具、自然、文様と多岐に渡り、西洋と対照的なのはシンプルで上品、かつ親しまれやすいということ。ただの模様ではなく、すべてが「家紋」であるということも珍しいのです。


「家紋」は日本が世界に誇れる文化です。
最近では自分の家の家紋すら墓参りに行くまで知らないという人が多いと思います。家紋を知り得るということは、自らの存在と先祖が歩んできた道を紐解く一端となります。その先には不思議とロマンが限りなく広がっていることでしょう。
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片倉「九曜」
九曜

片倉家の「九曜」(月星)紋。

BASARA好きの関係で「片倉家」として書かせて頂きますが、「九曜」(他の多くの家紋も)は片倉家に限った紋ではありません。伊達家では「三家紋」(竹に雀、丸に堅三つ引き、九曜)として使用されていますし、有名なところで細川氏や相馬氏なども「九曜」を使用しています(当時の武家では家紋は当然のように変えるものでしたので、1つの武家で幾つもの紋を使用していました)。片倉家は伊達家の重臣であったことから賜ったものとされています。

今では神社等あらゆるところで汎用されていますが、「九曜」の意味するところは、「星の日,月,火,水,木,金,土の七曜に羅と計が加わったもの」が「九曜」です。星にちなんだ家紋は他にもありますし、「九曜」に類似した家紋も沢山あります。宗教的かつ天体の神秘的な意味合いが込められているのでしょう。

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